慶応還暦の会にいってみました。

東京プリンスのタワーなんとかというところで、ありまして、同級生が名古屋から参加されるというので行ってきました。自分もそうなんですが、ほんとにみんな同じ年?きもの着てた男は私だけでしたが、女性は結構いました。ちょっと安心。

 

当日のお土産。還暦の赤いタオル?マフラーかな?

早稲田は息子の。カステラですが、OBでしょうか。うまかった。

 

なんで?当日はいなかったような。。

特に味はかわらなかったとか。食べてないが。

| 店主のひとりごとNO12 | 18:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
足袋の話(千美通信vol.18)
 しじら織で有名な徳島県は足袋の生産全国一(全国の1/3以上)なのをご存じですか?(2位は埼玉県行田市)ちなみに千歳屋で永年扱っている「福助足袋」は徳島と行田で作られています。瀬戸内の温暖な気候に恵まれ木綿の産地だったこと、また大阪や神戸に近く良港があり、古くから「藍」と「塩」の生産で繁栄しました。これらは男性の仕事だったので、女性の出来る仕事として足袋作りの内職が発展したようです。また行田は中山道が近くを通っていたことや徳島と同様木綿の産地だったことなどから、昭和のはじめには全国の8割(昭和13年[1938]8,400万足)を生産していたそうです。
綿足袋の歴史は意外に新しく明治のはじめまでは手縫いで皮製(主に鹿革)でこはぜではなく紐式だったそうです。その後ドイツ製のミシンが導入されてからは、急速に発展しましたが、戦後は洋風化により衰退し現在は全国で数社になり、それぞれ創意工夫しながらがんばっています。
ちなみに福助足袋(四国フクスケ株式会社)は業界全体約92万足のうち47万足を生産しています。

☆足袋の起源

西暦500年以前(奈良時代以前)に中国から装束や他の文化と共に、木靴に履く靴下のような履き物「襪(しとうず)」が伝来しました。この襪が発展して足袋が生まれたという説があります。指股がなく今の靴下のような形状で、履いた後に足首のところを紐で結ぶというものでした。平安時代以前の貴族は草履を履く習慣が無く、現代のスリッポンのような浅沓(あさぐつ)やブーツ状のかの沓(かのくつ)が着用されていたため、その下に履く靴下のような役割として用いられていました。よって、しとうずとは「したぐつ」が訛ったものとされています。
     

また同じく平安時代に山家(やまが)とよばれた猟師たちが、山野で足を保護するために、猿や熊、鹿等の毛皮を履物にし、指先に股をつけた(毛足袋)をはいており、それが後世の足袋の原型になったとする説もあります。

       

1657年に起きた振袖火事(明暦の大火)にて皮が品不足となり高騰したことから、現在使用している木綿製の足袋が急速に普及し、江戸時代中期以降より足袋の色・形・こはぜ等が大きく変化していきました。

☆足袋の語源
しとうずを履いていた公家に対して、武家が着用していたのが単皮(たんぴ)です。平安時代の倭名抄(わみょうしょう・和名類聚抄)には『町人は鹿革を以って半靴(はんか)を為(つく)る、名づけて単皮(たんぴ)という』
単(ひとえ)の皮を使った、今で言う靴のようなもので、その(たんぴ)が後に(たび)に変化したという説があります。
鎌倉時代の宇治拾遺物語に『猿の皮の足袋はきなして』という記述があることから、11世紀には(足袋)の字が使われていたことがわかっています。また足袋の形が鼻に似ているので「多鼻」からという説や、旅に使うので「旅靴」がタビになったという説などがあります。

☆こはぜのルーツ(留め具の進化)

元禄(1688-1704)の頃に中国から渡ってきた財布の留め金として使用されていた爪を応用し、現在の旅の原型となる、足首をこはぜで留める足袋が開発されました。また江戸時代にはボタンで留めるたびも作られていました。しかし農村部を中心に一般庶民には紐で結ぶタイプの足袋も依然として使用されており、こはぜがけの旅が広く普及するのは、明治時代に入ってからでした。こはぜは明治時代までは2枚が主流で、金や象牙、鯨の骨などで作られていました。現在は真鍮やステンレスを中心とする金属で作られています。


ちなみにタイヤメーカーのブリジストンは、元々足袋の製造会社でしたが、ゴムの地下足袋を発明して盛業し、その後日本ゴム株式会社から今の会社を築いたそうです。
創業者である石橋正二郎氏は、家業の仕立物業を足袋製造業に専業化し、さまざまな改革に取り組みました。足袋産業は全体的に近代化が早かったようです。改革の一例として、動力ミシン、裁断機、石油発動機の導入、労働者への給与制の実施、均一価格制の導入などがあります。

また、労働力の確保が容易であったことも足袋づくりを後押しました。阿波国徳島県は製塩業が盛んで、塩田労働者の多い地域でありましたが、塩田労働は重労働であり、男性の仕事であったため、女性が従事できる仕事として足袋生産が家庭内で行える内職(副業)として発展していったようです。


 
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