しじら織の長尾さんと

青山スクエアの伝統工芸センターで。
| きもの関係 | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
足袋の話(千美通信vol.18)
 しじら織で有名な徳島県は足袋の生産全国一(全国の1/3以上)なのをご存じですか?(2位は埼玉県行田市)ちなみに千歳屋で永年扱っている「福助足袋」は徳島と行田で作られています。瀬戸内の温暖な気候に恵まれ木綿の産地だったこと、また大阪や神戸に近く良港があり、古くから「藍」と「塩」の生産で繁栄しました。これらは男性の仕事だったので、女性の出来る仕事として足袋作りの内職が発展したようです。また行田は中山道が近くを通っていたことや徳島と同様木綿の産地だったことなどから、昭和のはじめには全国の8割(昭和13年[1938]8,400万足)を生産していたそうです。
綿足袋の歴史は意外に新しく明治のはじめまでは手縫いで皮製(主に鹿革)でこはぜではなく紐式だったそうです。その後ドイツ製のミシンが導入されてからは、急速に発展しましたが、戦後は洋風化により衰退し現在は全国で数社になり、それぞれ創意工夫しながらがんばっています。
ちなみに福助足袋(四国フクスケ株式会社)は業界全体約92万足のうち47万足を生産しています。

☆足袋の起源

西暦500年以前(奈良時代以前)に中国から装束や他の文化と共に、木靴に履く靴下のような履き物「襪(しとうず)」が伝来しました。この襪が発展して足袋が生まれたという説があります。指股がなく今の靴下のような形状で、履いた後に足首のところを紐で結ぶというものでした。平安時代以前の貴族は草履を履く習慣が無く、現代のスリッポンのような浅沓(あさぐつ)やブーツ状のかの沓(かのくつ)が着用されていたため、その下に履く靴下のような役割として用いられていました。よって、しとうずとは「したぐつ」が訛ったものとされています。
     

また同じく平安時代に山家(やまが)とよばれた猟師たちが、山野で足を保護するために、猿や熊、鹿等の毛皮を履物にし、指先に股をつけた(毛足袋)をはいており、それが後世の足袋の原型になったとする説もあります。

       

1657年に起きた振袖火事(明暦の大火)にて皮が品不足となり高騰したことから、現在使用している木綿製の足袋が急速に普及し、江戸時代中期以降より足袋の色・形・こはぜ等が大きく変化していきました。

☆足袋の語源
しとうずを履いていた公家に対して、武家が着用していたのが単皮(たんぴ)です。平安時代の倭名抄(わみょうしょう・和名類聚抄)には『町人は鹿革を以って半靴(はんか)を為(つく)る、名づけて単皮(たんぴ)という』
単(ひとえ)の皮を使った、今で言う靴のようなもので、その(たんぴ)が後に(たび)に変化したという説があります。
鎌倉時代の宇治拾遺物語に『猿の皮の足袋はきなして』という記述があることから、11世紀には(足袋)の字が使われていたことがわかっています。また足袋の形が鼻に似ているので「多鼻」からという説や、旅に使うので「旅靴」がタビになったという説などがあります。

☆こはぜのルーツ(留め具の進化)

元禄(1688-1704)の頃に中国から渡ってきた財布の留め金として使用されていた爪を応用し、現在の旅の原型となる、足首をこはぜで留める足袋が開発されました。また江戸時代にはボタンで留めるたびも作られていました。しかし農村部を中心に一般庶民には紐で結ぶタイプの足袋も依然として使用されており、こはぜがけの旅が広く普及するのは、明治時代に入ってからでした。こはぜは明治時代までは2枚が主流で、金や象牙、鯨の骨などで作られていました。現在は真鍮やステンレスを中心とする金属で作られています。


ちなみにタイヤメーカーのブリジストンは、元々足袋の製造会社でしたが、ゴムの地下足袋を発明して盛業し、その後日本ゴム株式会社から今の会社を築いたそうです。
創業者である石橋正二郎氏は、家業の仕立物業を足袋製造業に専業化し、さまざまな改革に取り組みました。足袋産業は全体的に近代化が早かったようです。改革の一例として、動力ミシン、裁断機、石油発動機の導入、労働者への給与制の実施、均一価格制の導入などがあります。

また、労働力の確保が容易であったことも足袋づくりを後押しました。阿波国徳島県は製塩業が盛んで、塩田労働者の多い地域でありましたが、塩田労働は重労働であり、男性の仕事であったため、女性が従事できる仕事として足袋生産が家庭内で行える内職(副業)として発展していったようです。


 
| 店主のひとりごとNO12 | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
久しぶりの歌舞伎

久しぶりに歌舞伎を拝見して来ました。とてもお正月らしい楽しい演目で、菊五郎劇団といわれるのにふさわしいスペクタクルな飽きさせない演出でした。若手に知り合いの役者さんもいるのも、楽しみのひとつです。

今夏には千歳屋主催で久しぶりに「きものDE歌舞伎」をやってみようかと。具体的になりましたらお知らせします。

| きものDEおでかけ | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
久しぶりに香道を体験しました。

昨日久しぶりに香道を体験させていただきました。飛び入り参加にも関わらず、快くお引き受けいただいた黒須先生に感謝です。
今回初めて灰に火を入れるところからやらせていただき、火の加減の難しさを。また面白さを体験させていただきました。火の強さ、時間の経過、受けて側の体調や気持ちの持ち方など、たった6種の香木(失礼!)から無限の世界が広がるそうです。ほんのちょっとだけ垣間見ることができたような気がします。

千歳屋では、毎月第2日曜日午後1時30分より当店2階にて香道のおけいこをしておりますので、ぜひ参加してください。次回は12月13日(日)午後1時30分より3時30分まで。「三筆香」(さんぴつこう) 日本の字の上手な3人の方にちなんだ組香だそうです。参加費4000円。申し込みは千歳屋まで。03−3482−0039 または info@chitoseya.comまで
| 千歳屋のおけいこ | 14:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
鹿児島に行ってきました。
先日鹿児島に行ってきました。娘の紹介で格安料金で飛行機に乗ることができました。ナビゲーターは妻です。飛行機の手配から宿泊・レンタカーの予約、私は一緒に行って運転手をしています。今回は鹿児島空港から、レンタカーで指宿まで。一泊2日の旅、鹿児島まで行ってもったいない。留守中の店を守ってもらうスタッフのみんなに感謝です。


一見工事現場のようですが、海岸にある「砂むし風呂」です。中で50人くらい寝られます。だいたい15分くらい漬かって?埋まって?入っていて、それ以上だと低温やけどを起こすおそれがあるそうです。その隣のホテルに泊まりました。海が目の前で屋上の露天風呂からの眺めがすごかった。寒かったけど。こちらも中国人を中心とした外国人が多かった。飲み屋もほとんど閉店していて、夜おみやげ買いに出歩いている人は皆無でした。


翌日は知覧へ。妻が「ここは絶対はずせない!」場所ということで、いちばんに行きました。修学旅行の中学生がたくさん来ていました。いろいろな考え方があるけれど、この時代もっと人知れずなくなった若者も多数いたわけで、そういう人たちのことも忘れてはいけない。特攻で生き残った人たちが、今の日本を作ったわけで、もっと誇っても良いのでは。


隣のホテルは廃業していました。けっこう指宿では大きなホテルだったようです。
(以上3枚は写真を撮っていなかったのでNETから拝借しました。)

20年ぶりの奄美の里
翌日は大島紬のメーカー「藤絹織物」が30年ほど前に建てた大島紬の生産工程が一堂に見られる「奄美の里」に行ってみました。20年ほど前、初めて父と一緒に旅行した場所です。そのときは大島紬の産地見学ということで、鹿児島と奄美大島両方に行きましたが、今回はその後どうなっているのか興味があったので。隣には一緒に建てられた大きなレストランがあり、昼食はそこで名物の「鶏飯」けいはんをいただきました。前社長が亡くなって、一昨年その後ろにあった工場を壊して、おおきな結婚式場ができていました。やり手です。
その昔は、業界の慣例を破っていろいろあった会社ですが、代替わりしてますますチャレンジしているようです。社長の話がどこかで聞きたいものです。

噴火の瞬間
市内の仙巌園についた途端、桜島から噴煙が!早く取らないと風で煙が消えるといわれ、妻がスマホで撮影!
なかなか見られないとのこと。
その後入った食堂で「あと5分で七つ星が前を通る」と聞き、人間は要らないのではという要望は、妻の「いいから!入って!早く!ブログにあげるんでしょ!」というご指示に従いまして、下のようになりました。なかなか良い写真ですねえ。遺影に使いましょう。

七っ星と桜島

その後、黒薩摩の長太郎窯に伺い、お茶で使う黒薩摩の蓋置きを購入、茶入れのとてもよろしいのがあったのですが、予算オーバーで涙を呑んで見送りました。また天文館商店街(といってもかなり広範囲なアーケード街)でさつま揚げやお土産などの購入に同行し、めでたく東京に帰還しました。あいかわらずあわただしい旅行でしたが、充実しておりました。妻に感謝。
| 家族旅行 | 21:24 | comments(1) | trackbacks(0) |
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