群馬で養蚕業参入相次ぐ

 群馬で養蚕業参入相次ぐ 「富岡」の世界遺産で県産絹に脚光

    2016/7/23 7:01
    日本経済新聞 電子版

   

群馬県で個人や企業による養蚕業の参入が目立っている。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録で、地元産の絹に対する需要が増加。自治体などの手厚い補助金も追い風となっている。県は参入希望者の技術向上を支援するため、今年から実践研修制度を始めた。もっとも補助金に依存した収益構造を疑問視する声もある。

「温度、湿度に風通しの調整、飼育環境の細やかな対応が大事だ」。甘楽町の地域おこし協力隊員、浅井広大さん(27)は7月から富岡市の養蚕農家、金井一男さん(75)のもと蚕の飼育研修に励んでいる。研修は朝5時から夜9時ごろまで、桑の葉の採取や生育段階が異なる蚕の仕分けなど一連の工程を学ぶ。

浅井さんは研修を終えた後、今秋から甘楽町が整備した施設で養蚕を開始する予定だ。「養蚕業には可能性がある、自立したい」との思いに、金井さんも「若者が関心を持ってくれるのはうれしい」と歓迎する。

群馬県は今年から養蚕の担い手育成プログラム「ぐんま養蚕学校」を始めた。まず、5〜6月に参入希望者16人が県蚕糸技術センターで飼育実習などの研修に参加。このうち、2年以内の参入をめざす、浅井さんを含めた7人が農家での実践研修に進んでいる。

7人は20歳代〜70歳代と幅広く、脱サラしてまで始める人もいる。県はこれまで参入希望者には個別に農家を紹介していたが、希望者が増えたことで「体系的に取り組むことにした」(県蚕糸園芸課)。来年度以降も継続していく計画だ。

群馬県の2015年の繭の生産量は前年比1%増の4万7355キログラムと、32年ぶりに伸びた。養蚕農家の戸数は137と6戸減ったが、1戸あたりの生産量が増加した。今年も生産量は前年を5%程度上回る水準で推移しており、県蚕糸園芸課の岡野俊彦・絹主監は「2年連続の増加を狙いたい」と意気込む。

企業の参入も増えている。富岡製糸場の前で絹を使った化粧品を販売する絹工房(富岡市)は15年に養蚕を始めた。地元の養蚕業の衰退で自社分の需要が賄えなくなるとの危機感からだ。市内のシイタケ小屋2棟を借り受けて養蚕ができる施設に改修。養蚕技術を学んだ社員3人が作業を担当する。

夏場は屋根にホースを取り付け、水を断続的に流して室温を下げる工夫を施した。しかし蚕が食べる桑の採取が追いつかず、今年の繭の生産量は当初の目標800キロに対して500キロにとどまる見通しだ。

米満正和顧問(66)は「まだ手探りの状態。スキルを高め、生産量を拡大していきたい」と話しており、新たな養蚕施設を設けることも検討している。来年は1トン、将来は5トンの生産を目指す。

| 純国産シルク | 19:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
きものDE落語の会ご報告

去る7月3日(水曜日)半蔵門の国立演芸場にて。参加者24名。終演後半蔵門駅付近の「麹」こうじカフェにてミニパーティ(ご希望の方のみ)を開催。先月大評判になったしじら織のきものをはじめ、紗や絽のきもの、小千谷などの麻のきものが大集合しました。たまたま桂歌丸師匠が出演する日だったので、演芸場は満員御礼!結構目だってましたねえ。でも結構おきもの姿の粋なお姐さんや若い女性や男性もいて、最近の落語ブームを実感しました。参加者のほとんどの方が落語を生で聴く?見る?のは初めて。実は私も小学校のときに新宿の末広亭に連れて行かれて?以来。なかなか楽しい!落語の聴き方がわかってるお客さんが多くて。なんだか病みつきになりそうです。

 

数名の方のお顔がはっきり写っていなくてごめんなさい。

 

 

| 和を楽しむ | 15:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
しじら織の長尾さんと

青山スクエアの伝統工芸センターで。
| きもの関係 | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
足袋の話(千美通信vol.18)
 しじら織で有名な徳島県は足袋の生産全国一(全国の1/3以上)なのをご存じですか?(2位は埼玉県行田市)ちなみに千歳屋で永年扱っている「福助足袋」は徳島と行田で作られています。瀬戸内の温暖な気候に恵まれ木綿の産地だったこと、また大阪や神戸に近く良港があり、古くから「藍」と「塩」の生産で繁栄しました。これらは男性の仕事だったので、女性の出来る仕事として足袋作りの内職が発展したようです。また行田は中山道が近くを通っていたことや徳島と同様木綿の産地だったことなどから、昭和のはじめには全国の8割(昭和13年[1938]8,400万足)を生産していたそうです。
綿足袋の歴史は意外に新しく明治のはじめまでは手縫いで皮製(主に鹿革)でこはぜではなく紐式だったそうです。その後ドイツ製のミシンが導入されてからは、急速に発展しましたが、戦後は洋風化により衰退し現在は全国で数社になり、それぞれ創意工夫しながらがんばっています。
ちなみに福助足袋(四国フクスケ株式会社)は業界全体約92万足のうち47万足を生産しています。

☆足袋の起源

西暦500年以前(奈良時代以前)に中国から装束や他の文化と共に、木靴に履く靴下のような履き物「襪(しとうず)」が伝来しました。この襪が発展して足袋が生まれたという説があります。指股がなく今の靴下のような形状で、履いた後に足首のところを紐で結ぶというものでした。平安時代以前の貴族は草履を履く習慣が無く、現代のスリッポンのような浅沓(あさぐつ)やブーツ状のかの沓(かのくつ)が着用されていたため、その下に履く靴下のような役割として用いられていました。よって、しとうずとは「したぐつ」が訛ったものとされています。
     

また同じく平安時代に山家(やまが)とよばれた猟師たちが、山野で足を保護するために、猿や熊、鹿等の毛皮を履物にし、指先に股をつけた(毛足袋)をはいており、それが後世の足袋の原型になったとする説もあります。

       

1657年に起きた振袖火事(明暦の大火)にて皮が品不足となり高騰したことから、現在使用している木綿製の足袋が急速に普及し、江戸時代中期以降より足袋の色・形・こはぜ等が大きく変化していきました。

☆足袋の語源
しとうずを履いていた公家に対して、武家が着用していたのが単皮(たんぴ)です。平安時代の倭名抄(わみょうしょう・和名類聚抄)には『町人は鹿革を以って半靴(はんか)を為(つく)る、名づけて単皮(たんぴ)という』
単(ひとえ)の皮を使った、今で言う靴のようなもので、その(たんぴ)が後に(たび)に変化したという説があります。
鎌倉時代の宇治拾遺物語に『猿の皮の足袋はきなして』という記述があることから、11世紀には(足袋)の字が使われていたことがわかっています。また足袋の形が鼻に似ているので「多鼻」からという説や、旅に使うので「旅靴」がタビになったという説などがあります。

☆こはぜのルーツ(留め具の進化)

元禄(1688-1704)の頃に中国から渡ってきた財布の留め金として使用されていた爪を応用し、現在の旅の原型となる、足首をこはぜで留める足袋が開発されました。また江戸時代にはボタンで留めるたびも作られていました。しかし農村部を中心に一般庶民には紐で結ぶタイプの足袋も依然として使用されており、こはぜがけの旅が広く普及するのは、明治時代に入ってからでした。こはぜは明治時代までは2枚が主流で、金や象牙、鯨の骨などで作られていました。現在は真鍮やステンレスを中心とする金属で作られています。


ちなみにタイヤメーカーのブリジストンは、元々足袋の製造会社でしたが、ゴムの地下足袋を発明して盛業し、その後日本ゴム株式会社から今の会社を築いたそうです。
創業者である石橋正二郎氏は、家業の仕立物業を足袋製造業に専業化し、さまざまな改革に取り組みました。足袋産業は全体的に近代化が早かったようです。改革の一例として、動力ミシン、裁断機、石油発動機の導入、労働者への給与制の実施、均一価格制の導入などがあります。

また、労働力の確保が容易であったことも足袋づくりを後押しました。阿波国徳島県は製塩業が盛んで、塩田労働者の多い地域でありましたが、塩田労働は重労働であり、男性の仕事であったため、女性が従事できる仕事として足袋生産が家庭内で行える内職(副業)として発展していったようです。


 
| 店主のひとりごとNO12 | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
久しぶりの歌舞伎

久しぶりに歌舞伎を拝見して来ました。とてもお正月らしい楽しい演目で、菊五郎劇団といわれるのにふさわしいスペクタクルな飽きさせない演出でした。若手に知り合いの役者さんもいるのも、楽しみのひとつです。

今夏には千歳屋主催で久しぶりに「きものDE歌舞伎」をやってみようかと。具体的になりましたらお知らせします。

| きものDEおでかけ | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
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